作成日:2023/07/02
天王山
梅雨の合間の2日、大山崎町の天王山(270メートル)を登り下りしてきました。 JR東海道在来線の山崎駅から北へ小一時間。久し振りの好天で、山頂までの遊歩道 でざっと100人ほどと行き交う賑わいです。中腹からは木津川、宇治川、桂川が合流し て淀川になる情景や、展望台の案内に「晴れた日には見える」とあった大阪城も遠望で きました。 天王山はいうまでもなく「本能寺の変」(1582年6月)の直後、秀吉が信長の敵討ち のため光秀と激突した「山崎の合戦」で知られる摂津・山城国境にせり出す丘です。調 べると、光秀軍1万6千、秀吉軍4万が対峙したのは山麓と淀川の間の狭い湿地帯で、 山の斜面が戦場になった記録はない、とのこと。なので「天下分け目の天王山」は少し おかしく、近年では「山崎の合戦」でほぼ統一されているようにも思えます。 山頂までの道筋には「本能寺」から秀吉の天下取りまでを描いた大きな陶板画6枚が 置かれて、分かりいい案内になっています(作・堺屋太一、絵・岩井弘)。一方、幕末 の「蛤御門の変」(1864年7月)で敗れた長州藩サイドの真木和泉らが自爆死した「十 七烈士の墓」もありました。秀吉が造り大坂城築城と共に廃した山頂の「山崎城」の配 置図も面白い。 合戦の主因になった「本能寺」は、信長による蔑視・虐待に対する怒りと、スキを衝 いて信長を倒すという野心を抱いた光秀が独り決心し、起こしたというのが通説。しか し聞いたり読んだりした範囲では、4つほどの「黒幕説」もあります。 1つは、当時毛利の庇護下にあった足利15代将軍義昭が糸を引き、将軍家を復興せし めんとして光秀に信長攻撃を指示した、という説。2つは、信長が敵対していた比叡山 延暦寺の残党または大坂本願寺が光秀をそそのかして信長を襲わせた、という説。3つ は、秀吉が光秀自滅のシナリオを描いて策謀をめぐらし、自らの天下取りを演出した、 という説。4つは、実は家康が全部の背後で他を操っていた、という説(さすがにこれ はないだろう、とは思います。家康の相談相手だった「天海大僧正=生き延びた光秀」 説は楽しい仮説ですが)。 つらつらそんなことを考えながら、天王山から下りて見学しようとした山崎駅西側の サントリー山崎蒸溜所には、今年秋まで「改修のため見学中止」の張り紙。残念です。
大学のキャンパスを思わせる、風格のある山崎蒸溜所の建物南側には「since1923」 とあり、今年はちょうど100周年。何かイベントのための改修でしょうか。