作成日:2022/09/03
ニュースの消費
旧統一教会と政治家のもたれ合いを暴くニュースが続いています。自民党を中心に教 団と政治家のズブズブの関係が掘り起こされる一方、騒ぎの行方、または着地点がよく 分からない。 教団と持ちつ持たれつだった政治家が揃って謝罪すればいいのか。ケジメを強要され ての議員辞職、あるいはその先の解散・総選挙にまで持ち込みたいのか。捜査当局がど う構えているか、他の案件の動き等にもよるとはいえ、見通しははっきりしません。 騒ぎの元になったのは、元総理を銃撃した山上某が、旧統一教会を憎み、その宣伝に 加担していた元総理を恨み、自作した銃で至近距離から撃った、という凶悪な犯行のは ず。流れからすれば、教団と因縁のあった政治家をたたくことは、山上某の犯行にも一 理あった、あるいは犯行の動機は理解できなくもない、とみなすことにつながります。 どこかねじれています。 「人は見たいものしか見ない」――。ユリウス・カエサルが遺したという卓見です。 塩野七生さんが『ローマ人の物語』で紹介し、世に広まったとのこと(それ以前からあ ったような気もしますが)。 大量のニュースが紙や映像やネット上で流れ、日々消費されていることは今に始まる 話ではありません。しかし、その報道なり意見なり感想なりが妥当かどうか、妥当であ ればどうチョイスしていくかの価値判断があいまいになっていることは一般的には確か です。しかも、ニュースの「放出と回収」のスピードは非常に速く、正確さとバランス は軽視されがち。冷静な手順を踏んで発出されるニュースと、誇張・曲解・捏造された フェイクが混在しています。「見たいものしか見ようとしない受け手」に迎合した報道 は自己運動のように繰り返されます。