桂川通信コメント
桂川通信コメント
作成日:2019/09/03
駅には誰も来なかった



 96年前の9月1日、関東大震災が発生し、家屋を失くしたおびただしい数の住人が各地に避難しました。東海道線には避難民ですし詰めになった列車が西に走り、多くの人が一時的に、またはずっと沿線にとどまって生活を再開したといいます。

 1週間ほど続いた避難民を西に運ぶ臨時列車の運行情報は、京阪神で発行される新聞に駅到着見込み時間が示されて上方にも伝わりました(ラジオが全国的に普及したのは、関東大震災以降です)。

 その記事で臨時列車の到着時間を知った上方の面々は、自然発生的に大阪駅や神戸駅に押しかけました。夜を通して走ってきた列車から降り立つ、疲れ果てた多数の避難民に声をかけ、激励し、食べ物、そして泊まる場所の提供など、知らない相手に手を差し伸べる光景が繰り広げられ、出迎えと避難民双方で駅構内や改札口はごった返した、という記録が残っています。

 この件は前職時代、必要があって明治維新以降の上方の歴史や風俗を調べたときに出合ったエピソード。そこで気になったのは、臨時列車が大阪に入る1時間ほど前に到着した七条の京都駅にはなぜか「避難民を出迎える者など誰もおらず、改札口は閑散としていた。大阪駅や神戸駅での熱狂的な出迎え光景とは対照的だった」ということです。

 よく知られた近現代史のひとコマかも知れません。私も、この京都駅での「震災避難民のことなど知ったことか」みたいな冷淡な様子は、その55年前の事実上の遷都に対する、東京への意趣返しのようなものだった、という見解を聞いた覚えがあります。避難民を誰も出迎えなかったのは、皇室を東へ連れ去ったままの東京、関東に対する反発心からだ、というわけです。

 ここでもうヒトヒネリします。1868年に薩長土肥の新政権が最終的に皇室を東京に移したのは、江戸という都市インフラが出来上がっていた、幕閣を支えた人材もほぼ残っていた、北海道を含めた列島の地理的なセンターに位置していた、後背に関東平野という広い平坦地があったことなどが要因に挙げられます。

 と同時に、進取の気性に富んだ新政権の指導層は、維新前から京都に出入りしていたこともあり、「閉鎖的でウラオモテがあり、気位ばかりが高く、陰険・陰湿な京都の人間と風土を嫌っていた」ことが大きい、という推測が成り立ちます。96年前、誰も震災避難民を出迎えようとしなかったのは、自業自得のあげくのひとり相撲みたいな空しい話だったという見方もできるわけです。

 私は本式の京都人ではないので、以上のようなことが平気で書けます。生粋の京都人からは「えろう勉強してはりますなあ。もっとキバって勉強しておくれやす」と、本心のみえない、気持ちの悪い皮肉を言われそうです。
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