桂川通信コメント
桂川通信コメント
作成日:2019/06/02
伏見の街



 4月下旬、同じ伏見区内で事務所を移して1カ月余り。5年ほど通った元の事務所は古い宅地開発エリアにあり、一帯には田畑と住宅・工場が点在していて、よくいえば街と自然が交ざった郊外らしい野趣、普通にいえば雑然とした、とりとめのない光景が広がっていました。

 新しく借りたワンルームは京町通り沿いで、丹波橋駅まで徒歩数分。月桂冠や黄桜酒造のほか、酒蔵がいくつもレンガ造りの建屋を並べ、大手筋商店街のアーケードも近く、便利です。坂本龍馬が間一髪で追っ手から逃げ出したという旅館寺田屋もさほど遠くではありません。

 京町通り一帯は、京阪と近鉄が30メートルほどの間隔で複線の線路を南北に並行させています。大阪と京都、奈良と京都を結ぶ幹線2本なので、早朝から深夜までの時間帯の半分近く、つまりひっきりなしにどこかの踏切の遮断機がカンカンカンと下り続けて、騒然としています。

 その騒がしさと似ていると言えばいいか、夜、コンビニなどの行き帰りに感じるのは、重く、粘りつくような歴史の澱み(よどみ)です。大袈裟に、またはキザに聞こえるかも知れませんが、死んだ人間の気配がおびただしくあたりに沈殿し、その上に今の人たちがひっそりと生息している、そんな感触を覚えるのです。しかもそれは「澱み」であって、「深み」「厚み」「積み重なり」みたいな感覚より、もっとやりきれない、あえていえば血なまぐさい感触です。

 伏見は秀吉が伏見城を築いて以降、ずっと街であり続けているようです。戊辰戦争の端緒になった鳥羽伏見の戦い(1868年1月の4日間)による被災は部分的で、第二次大戦中の米軍の空襲(1943〜45年)は東山区、右京区などが数回被災した半面、伏見では来襲自体がなく、つまり街並みは昔ながらの街路を残しています(なお、京都には空襲がなかったという風説は早くから事実によって否定されています)。

 東西南北に格子状で通りが交差しており、背丈の低い民家が軒を連ね、道幅は狭く、路地も多い。そんな下町風の街中に、生死を問わず、いや死んだ人間が大多数を占めるヒトの気配が充満しているように感じられるわけです。

 街中で寝起きするのは何度も経験しているものの、歴史の澱み、死者を含むヒトの気配を感じるのは、初めてです。こんなことを実感するのも、トシのせいでしょうか。あるいは、何かの前触れとなる「幻覚」でしょうか。いずれにせよ、やれやれです。
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