桂川通信コメント
桂川通信コメント
作成日:2016/12/02
遺跡現地説明会



先月19日、京都市上京区の府警本部北側で調査が進んでいた「平安京遺跡」の現地説明会(現説)に行ってきました。主体は府埋蔵文化財調査研究センター。長期にわたる調査がひとまず終わり、精密な記録を取った後、埋め戻して府警本部の新庁舎が建てられるとのことで、今回見ないと、遺跡を肉眼で見ることはできなくなる、という値打ちものでした。

現説は午前と午後の2回。私はこの日朝、知人ら数人と市役所前でのイベント「日本酒条例サミットin京都2016」に出向いたものの、夕方、車を使う予定があったため一滴も飲まず、知人らと別れた後、歩いて現説の午後の部に向かいました。日本酒サミットは今年が4回目で、全国各地の101蔵元181銘柄の清酒が、有料の「お酒券」でとりどりに楽しめるイベント(他の皆さんは「うまいうまい」と朝酒に上機嫌でした)。私はアルコールが顔に出ますので、もし飲んで現説会場に入っていたら、埋蔵文化財センターのスタッフに「酒気帯びご法度」と退場を指示されていたかもしれません。

それはともかく――。数百人が集まった今回の現説のメインは、室町期の大きな堀の跡でした。応仁の乱で荒廃した京都は街が上京と下京に分かたれ、堀は上京の南端で東西方向に掘られたものだった、とのこと。京都の四周に御土居を築いた秀吉の市街地再開発の前、中世の街の様子がほの見えてくる遺跡です。京都中心部の遺跡で面白いのは、9世紀からほぼずっと「市街地」又は「街の近郊」だったため、遺跡も古いものから新しいものへと積み重なっていることです。堀の上には、秀吉の聚楽第そばの武家屋敷等があったことが推察され、江戸末期には京都守護職に任ぜられた会津藩主、松平容保(かたもり)の上屋敷が同一の場所にあったことも後付けられた、ということでした(現地には上屋敷の井戸の跡もありました)。

遺跡発掘の現説にはよく出掛けています。関西在住の「うまみ」です。最も印象に残っているのは、99年に奈良県明日香村で公開された「飛鳥京苑池遺跡」。県立橿原考古学研究所が調査したもので、6、7世紀ごろの、石を敷き詰めた池を中心とする南北280メートル、東西100メートルの迫力満点の庭園遺跡です。ウィキによると、その折の現説には1万人もの見学者が参加したらしく、私もそこに交じって興奮していたはず。明日香村には他にもたくさんの遺跡があり、天気のいい日に一帯を歩くと時間を忘れます。京都と違うのは、8世紀ごろには都自体がなくなっていたことで、田畑や雑木林を発掘すると古代の遺跡がいきなり露出することが多いということです。

遺跡といえば、どこにあったのか、まだ分かっていない「邪馬台国」の所在地論争にも興味があります。「畿内説」と「北九州説」があることはご存知の通りで、考古学界では畿内説が優勢ながらも、アマチュアの邪馬台国ファンの間では北九州説も根強く支持されている、という構図が続いています。私自身は北九州説に興味があり、大和政権が奈良盆地で生まれたことと、九州に卑弥呼を女王に仰ぐ邪馬台国があったことは、時代を少しずらせば十分に両立するのでは、と漠然と考えています。

その畿内説を補強し、立証するカギになるのでは、と言われているのが、奈良・桜井市の纏向(まきむく)遺跡で、そこに今も表向き手つかずで遺っているのが、卑弥呼の墓との声もある前方後円墳の「箸墓(はしはか)」。卑弥呼の養女、台与(イヨ?)の墓ではないかという説もあり、いずれであれ、纏向遺跡一帯の調査がもっと進めば、邪馬台国論争も次の節目を迎えることになりそうです。

もっとも、個人的には、福岡県南部の山の中あたりで「ようこそ邪馬台国へ」と「神代文字」で書かれた木製の大型看板が発掘されたら楽しいなあ、と考えています(冗談です)。そこで「卑弥呼の日記」なんかが見つかったら、なおのこと面白い(これも冗談)。遠方ですが、そんな現地説明会があるのなら、出向きたいものです。
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