桂川通信コメント
桂川通信コメント
作成日:2016/03/16
被災地のこと



東日本大震災・大津波からまる5年。私は2011年3月の災害発生以降、2回しか東北には入っておらず、1回目ですら発生の半年後、2回目は1年半後でした(行き先は宮城県の石巻市、女川町、仙台市)。その後は現地入りする機会がなく、活字とテレビで様子を知るだけ。そうである限り、被災地について分かったようなことは書かない方がいい、と考えています。

一方、21年前の阪神淡路大震災。私は東京勤務で、千葉県下に住んでいましたが、発生の2日目に手を挙げ、1週間ほどの出張で現地入りしました。地震の揺れは知らないながらも、数日後の被災地を歩いた、ということです。

1995年1月17日の朝。私はテレビを見ていた女房に起こされました。「お父さん、神戸で地震! 行方不明2人だって」。前職時代の当時は通産省(現経産省)担当で、急ぎ支度をして霞が関に向かいます。記者クラブに駆け込み、デスクにせかされるまま、現地のガスや電気の被災状況を夕刊用に送稿。混乱した現地からは情報が届かない一方で、通産省にはとりあえずデータが入って来た、ということです。

大阪から東京に異動して1年と少しのころ。土地勘がある、とすぐに名乗り出て、西に向かいました。新幹線で大阪へ、北から回り込んで阪急西宮北口へ。あとは歩いて神戸へ。建物全半壊地区と、被害が小さくみえるエリアがあり、東西に延びる断層上に位置するかどうかで差が出たことを後に知ります。

やがて通りかかったのが、東灘区(?)の公会堂。同業らしい、腕章を付けた男が数人、暗い顔で入口に座り込んでいます。中に入ると、ホールには毛布をかけられた遺体が数十体、並んでいました。このとき初めて震災のむごさを実感しました。

その夜、新神戸駅そばの住宅街を歩いていると、向こうから来たご夫婦らしい2人連れが菓子パンを差し出し、「これ、食べたら?」(お礼を言って、受け取りました)。三宮駅南側の路上には右翼の情宣カーが停まり、ごつい男数人が車内で即席ラーメンをつくり、道行く人々に無償で手渡して。救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえるなか、公園で野宿している男性から話を聞いたり、灘五郷の酒造会社を回ったり。記憶は曖昧で、どんなリポートを書いたのかも覚えてませんが、それでも、被災数日後の生々しい情景は断片的ながらも記憶に残っています。

併せて、東京に戻り、ある全国紙の記事をみた折のことも。発生翌日のその新聞の東京朝刊経済面にこんな記事が出ていました。「都内のデパートでは、家具の転倒防止器具などの防災用品が飛ぶように売れている」。被災地には助けを求めている人がまだ大勢いるというのに、たとえ「飛ぶように売れている」ように見えたとしても、震災直後にこんなことは記事にしてはならない。少なくとも「飛ぶように」という、面白がっているようなニュアンスの言葉は使うべきではない。僕がデスクなら、こんな原稿はボツです――。などと、周囲に話していたら、先輩記者は醒めた口調で言いました。「別にいいんじゃないか。それが500キロ以上離れたこっちの受け止め方なんだから」

以上、見聞したことの紹介が「自慢」になっていないか、心配です。とくに当メルマガの送信先は過半が関西におられ、当時、震災そのものにダイレクトに遭遇された方も多いはず。震災を直接には知らないままの耳障りな話があったなら、お詫びします。

ついでにもう一つ、阪神淡路大震災の2カ月後に起きた「地下鉄サリン事件」のことも。オウム真理教(当時)が無差別大量殺人をくわだて、東京の地下鉄車内5箇所で猛毒のサリンを撒き、13人を殺した事件です。被災した路線の一つが千代田線で、私はあの朝、担当先の通産省に向かうため、サリン入りの容器が床に置かれた被災車両の2本あとの電車に乗っていました(翌日知りました)。

乗った電車は霞が関駅には停まらず、車窓から駅の職員がプラットホームを走っているのが見えました。次の駅で下車し、歩いて通産省のビルへ。そのとき見たのが、地下鉄・地上出入り口前の路上に倒れ、けいれんしている女性の姿です。2、3人が介抱していましたが(救急車も来ていたように思います)、事件の発生自体を知らない私は「急病?」と思って、そのまま館内へ。3月20日。肌寒さと暖かさが入り交ざったような、妙な日和の朝だったことも覚えています。

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