桂川通信コメント
桂川通信コメント
作成日:2013/10/09
伏見点描1−伏見城



伏見城 息抜きを兼ね、車を駆って伏見城へ。1964年に近畿日本鉄道が5層の天守閣、3層の小天守閣で造った「昭和の新伏見城」です。当時の名は 「伏見桃山城キャッスルランド」。小学生のころ、遠足や「子供会の日帰り旅行」などで数回来ました。いつもバス。思えば、まだ新築なったばかりのころ。内部の各層にはいろんな歴史資料が展示され、最上階の展望台から四方の眺めを楽しんだ覚えがあります。

 キャッスルランドは近鉄のリストラの一環で2003年に閉園したといいます。しかし、天守閣・小天守閣は市民の要望で存続が決まり(近鉄が市に無償で贈与)、今も往時の雰囲気は残っています。昔は確か遊園地が横にあったように思いますが、今は市の体育協会が管理してそばには野球場と多目的グラウンド。とはいえ、えんじ色をあしらった白っぽい天守閣は築49年でくすんではいても、むかし見上げたときのままです。ただ、天守閣は耐震基準を満たしておらず、補強工事の予算もない、ということで中には入れません。

 事務所に戻ってネットで調べました。まず、お城の外観。「模擬天守閣」なので、一部のサイトには「歴史的・文化的価値はない」云々とあります。一方、他のサイトでは「岡山の林原美術館が保有する『洛中洛外図』に描かれている伏見城を模した」と。また、伏見城は秀吉が1594年に築いた「指月伏見城」が、2年後の96年に「慶長伏見地震」で倒壊。建材は無事だったので同年中に指月の北東1`の地点に「木幡山伏見城」が造られた、とあります。さらに、1600年には関ヶ原直前の「伏見城の戦い」で家康側の武将が守っていた伏見城は落城・炎上。家康が征夷大将軍の宣下を受けたのは、再興された木幡山伏見城だったものの、家光時代の1623年に役目を終えて廃城、とありました。

 さらに調べていくと、林原美術館が所蔵している洛中洛外図は江戸初期の京都を俯瞰したものらしく、つまり家康が天下を握った後の木幡山伏見城が描かれている、と思いたくなります。しかも、建材を組む設計図面は秀吉時代の指月伏見城から大幅に変わっている、とは考えにくい。こうした点から、新伏見城は秀吉時代の外観に近いのでは、との推測を引き出しても、あながちムリではないようにも思えます(もっとも、落城・炎上後の再興天守閣が旧天守閣から大幅に外観を変えていたら、この推測は成り立ちません)。

 そういえば、私は小学生時代、真新しいお城を眺め、どことなく大阪城に似ているな、と感じたことを覚えています。しかし、その大阪城にしても昭和初期に市民が寄付した浄財で新築されたもので、厳密には秀吉が築いたときのまま(の大坂城)ではない、と聞きます。似ていると思ったものが元の姿ではないとなると、新伏見城が秀吉時代のデザインを模している、とは言いにくくなります。もう一つオチめいたことを書けば、新伏見城の建設場所は旧伏見城の本丸があった場所から少し離れている由(明治天皇の御陵付近?)。外観も立地場所も「昔のままに再現」とは表立って言いにくいのが、つらいと言えばつらいところです。とはいえ、新伏見城は市南部のランドマークになっており、新築当時の明るいイメージが適度に「脱色」していて、それなりに雰囲気が出てきたようにも思います。

 
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