作成日:2023/04/05
司馬遼太郎
前回も記した長編評伝『空海の風景』は、久しぶりの司馬さんでした。自慢
でも何でもなく、司馬さんの長尺モノの3分の2ほどは通過したように思いま
す。3月末、別件があったついでに思い立って入館した東大阪市の記念館(自
宅跡)は、平日なのに結構にぎわっていました。今も根強い人気がある、とい
うことかもしれません。
陸軍大将乃木希典の史料を求め、神田の古書街の店主らに声掛けしてリアカ
ー数台分の古書・資料を一網打尽に買い漁った。成果として残ったのは、中編
小説『殉死』だけだった(と言って非難する人がいました)。あるいは、坂本
龍馬を実際以上に過大評価したとか、寄り掛かった史料自体に元々偏りがあっ
たとか(『機密日露戦史』など)。死後30年近くになるなか、毀誉褒貶は依然残
っているものの、私はやはり初期の忍者モノから抜け出すことに成功した大型
の作家だと思います。「国民的作家」というのは(「国民的アイドル」と同じく)
空虚でつまらない形容だと考えますが。
一部の左派系の評論家は藤沢周平を持ち上げ、司馬遼太郎を批判する論法を
取っています。しかし、藤沢さんと司馬さんでは土俵も作風も異なり、対比
体に無理があります。歴史小説の分野でいえば、司馬さんはむしろ吉村昭さん
と比べるのが自然かつ妥当ではないか。
ともに史料に基づきながら、吉村さんは史料をほぼ転記するような筆致で淡
々と歴史上の事件を再現していきます(実際は転記の手法に創意があったと思
います)。一方の司馬さんは史料を咀嚼して吸収した後、司馬さんなりのフィル
ターを通して(特に中期以降)自在な語り口で物語るという姿勢でした。いい
悪いではなく、個性の違いです。
私はむかし一度だけ司馬さんをぢかに見たことがあります。大阪市内での何
らかの記念会合に、挨拶のために招かれたようでした。会合の途中、ふいに現
れ、壇上から5分ほど短くスピーチしてすぐに退出。その間、300人はいた出
席者から好奇に満ちた視線を浴びながら、気負いも構えも何もない自然体その
ままの様子で、それが今も印象に残っています。私自身くたばってしまう前に
残り3分の1は片付けたい、と考えています。読んでムダな時間だった、と思
ったことは一度もないので。